意外と誤解されがちベルリンの壁
歴史的なできごととして、ベルリンの壁崩壊は知られていても、そもそもその壁とはなんだったのか、は知られていないため解説を。
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2021-03-04 03:24:29
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ベルリンの壁の誤解
学校教育の世界史では、ベルリンの壁のことは教科書で数行触れておしまいなため、あまりその内容は知られておらず、東ドイツ領と西ドイツ領を隔てていたという事実くらいは教えられるため、てっきり今のドイツの国土が、中央に南北に長大な壁があり、国土をその壁でまっぷたつにしていた、と誤解されていることが多いです(もしくは一切知識がないか)。
実際にはベルリンの壁は、東西ドイツの境目ではなく、東ドイツの領域内にあるベルリン市街の中にあり、当時ベルリンは分割統治されていたため、その中で、東西ドイツ領を分断していた壁でした。
ベルリンの壁とは
ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。
冷戦下でドイツは東西陣営に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。
冷戦下でドイツは東西陣営に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。
1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツの無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ソ連の戦勝4か国により分割占領され、そして首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった。
やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行った。米国は6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除し、「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。
やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行った。米国は6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除し、「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。
この決定的な英米ソの対立で、社会主義陣営に属するドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(以下、西ドイツ)が成立した。この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設した。以後、東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族や友人・知人と不意に引き裂かれた。そしてこの後、壁を越えて越境しようとした者が次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。なお、「ベルリンの壁」は「東西ドイツの国境の一部」ではなく、米英仏ソの戦勝4か国の共同管理に置かれたベルリンの特異な状況から生じたものである。
その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ政府がそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このとき報道官が不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くのベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が市民の通過を認め、ベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、東ドイツの崩壊に至った。
その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ政府がそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このとき報道官が不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くのベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が市民の通過を認め、ベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、東ドイツの崩壊に至った。
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